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タイトル:絵は描けません
藤 秋人 (Twitter
公開日:初出 2013/09/05 AM 05:14 〜 AM 06:23 Twitterでの発言より。
公開日:公開 2013/09/05
改 版:改稿 2013/09/05


 絵は描けません――高校(高等学校と書こうとして、普通の人はそんな言い方しませんね。)まで、美術の授業は好きだったのですが、絵が本当ダメなのです。脳内にある像をそのまま平面に透写しようとしてしまうらしく、何らオリジナリティはありません。しかも手が慣れていないので何時間掛けても、ダメです。ボブ・ロス(ね? 簡単でしょうの方です)のお絵かき教室とかも熱心に見ていたのですが。どう考えても簡単じゃありません。彼はアメリカ人(陸軍退役軍人)ですが、未だに『欧州情勢は複雑怪奇』ポツリ呟いて死んじゃう感じです。一体、絵描きさんは、どうやって組立図を作りながら描いていけるのか。皆目見当もつかない有様です。


 過去、サークルを主宰(もう一人と一緒に共同主宰でした)していた時に、主任美術担当と言うか。しっかり勉強していた同人から、図形の描き方や方法論を教えて貰いました。
 何度も、何度も。
 こっちは、代わりに文章の書き方(相手は当時、物を書くのが不得手でした)を教えていたのですが……。一回のレッスン中、相手が何かしら喋っている間、約180分はみっちり集中して「このペースでいけば一週間後には漫画が描ける」と言われながら課題に着手し添削して貰い。逆にこっちは相手に教えて課題を与えて添削し、なんてのをやる訳です。が、しかし。結局相手が私に課した課題の添削は回を重ねる毎に芳しく無くなるのです。
 逆に、結局半年〜一年半くらい教えて書かせて添削して。これを繰り返して相手は相手なりの文章の書き方を身に着けて卒業しました。一方、私の美術は物心ついた時から一回か二回褒められた遠近法の概念以外は、何も身につかずに終わりました。そう言うこともあるんですよ。


 心底努力したのに、本当に芽吹かない。つまり才能が無い。九割九分九厘努力して、一厘の閃きもなく終わった。これを以て始めて才能が無いと言えるんです。

 紙やカンパス、スケッチブックは言うに及ばず、タブレットに絵を描くこと、漫画や絵コンテを切ること。トレーシングペーパーを駆使してアニメーションを作ること。諦めざる得ません。

 作文なんて大っ嫌いでした。四百字詰めの原稿用紙を二枚まとめるのも苦痛だったこと。何よりも夏・冬休みにあった「推薦図書」を読んで感想文を書くこと。今なら嬉々として読んで(読み慣れた)感想をモリモリ書きます。これもサッパリでした。但し、朗読や喋り、演技は良いね。とか言われてました。それが証拠に、ぱらっと「何か変な話して」と振られると、心の蛇口が良い具合に緩んでる……。そう言った時は、ペラペラと紙芝居か、講談師の様にその場で一芝居出来る程度でした。ひょっとしたら、そちらの方に何か一芸あるのではないか。こう錯覚してしまったのが、運の尽きと言うべきか。なんと言うか。
 転機と言うのは、日常の終わりの始まり辺りにあるものです。うっかり、当時としては最強クラスの喘息発作(病院の処置室で処置を受けながら「殺してくれ」と叫んだのは後にも先にも、この時だけだと記憶しています)にプラスして、重度のインフルエンザで死を覚悟した時。後に残せるものが何にも無いことに気付きました。

 恐ろしくて夜も全く眠れない……いや、結局。眠れはしたのですよ?
 咳して疲れて。喘息発作の入院ってのは概ねそんな感じです。

 ほいで、当時まだ小さい下の弟妹を思って、RIPと彫られた墓石の下で灰になり無の概念が怪しい所へ行く。かも、しれない。でも、死って言うのは忘れられて行くものなんです。何も遺せないのは辛いですね、生きた証とか誰にも覚えて貰えません。頭の出来も良くない、器用な芸も出来ない。ですから例えば当時、昼のワイドショー三時間スペシャルで放送される芸能人の様に。誰からも、その生き様を哀しんで貰えるような事はない訳です。家族が悼み、知らず年月が流れ、妹が成人する頃には「一番上の……あんまり覚えてない」になる。
 私はおそらく初めてハッキリと嫌悪感を覚えました。平たく言えば、凄く嫌です。全く納得できません。何かすべきだと思いました。凄く渋々と「それなりに真剣に」物を書いて以来、コソコソと作品らしきものを書いて生きています。

 では、なぜ絵が描けない如きで物を書くようになったのでしょうか。
 これは私の父親について、少しだけ話さなくてはなりません。彼はセミプロの音楽家でした。伝え聞く所によれば、優秀なギタリストもしくはシンガーソングライターだったそうです。ですが、結局それだけです。今、父のタブ譜や楽譜、歌詞を聴くことは叶いません。全て消えてしまったのです。何もかも。一方で乱読家な母は、私を産む前と産んだ後の少なくとも三年間は几帳面なのか詩的だったのか、まるでお伽噺の様に私の産まれや当時の彼女から見た視点に基づいて書かれていました。今も、実家の何処かにあるのだと思います。絵が描けない奴は必然的に音楽もダメ。当時の若者の世代認識は、概ねそんな感じ。私の周りは。

 例外だったのかも知れません、一応同世代向けに弁明しておくべきでしょうか。
 さて。絵がダメなので進む先は文章になりますね。朗読、演技それらにまつわる話は、また機会があれば致しましょう。そう言う訳で、小説や童話、笑い話、柵の多い話、などなどをやるようになった。

 何よりも、二年ほど前に亡くなった父はギターと歌でそれなりだった様ですが、結局終生愛したギターは今どこにもありません。彼の作った曲も、そのリズムや音色も。おそらく五割から九割五分は母親が記憶している筈です。残り五分は、僅かに記憶に残る彼のメロディーと私が興味を持つと気長に、そして嬉しそうに弾き方を教える彼の姿くらいです。沢山の人に慕われましたが。家族にそれを後世に伝える術はありません。
 だから、このペンネームにしてから名前を変えて物語を書くことは極力避けています。もし、私が死んだら何時だって誰かの傍らに、暖かかったり悲しかったり愛おしかったり苦しさを覚えたり楽しさに笑い出すような、私の文章を置いてほしいのです。あの小話書いた人の続きが読みたいな。こう言われたい。故に、ツイッターの中でちょっとした「お話」を書くのが楽しいです。白紙の原稿用紙や真っ白なワープロソフトやいテキストエディタの前で、睨めっこしているよりもずっと良い。しかし、こう考えると頑なにペンネーム兼ハンドルネームを変えないのは、私の最後の一線なのかも知れません。


 先日、縁(えにし)あって『物言う術』とか『雄弁術』と言う……さて、どちらが正解でしょうね。こんなお芝居を見てきました。台本が古いのか、四文字熟語でまくし立てる。役者さんの為の本なんだろう、こう思ってセリフに耳を傾けていると最終的に『天才は教育で出来るモノではない』と言うワケです。かの、アルベルト・アインシュタイン博士は、高位な方に次の様に訊ねられた事があるそうです。「天才とはどの様なヒトなのですか」と。博士は「堪え性の無い人間が天才と言うのです、それ以外は凡人です」と答えたと言います。
 数学と哲学は全てを解き明かすと言いますが、それは天才の言い分と私は思いますね。こう言った『アヤフヤな所を徹底的に因数分解するような話』は、酷く冷淡で、世界に対して堪え性が無い。一切合財明解でなければならぬ。誰も寝てはならぬ、と。こう言うお話と一緒です。

 仮にこの世の中が秀才と天才と言う杓子定規にぴったり当てはまる物と、決して当てはまらない物だけが存在しているなら。

 それはそれは、物悲しい風景でしょう。星と星の間、隕石の欠片も無ければ宇宙線も無い、光さえ通り過ぎないスルーされるだけの『間』です。拍子木を打つ『間』とは根本的に違うもので、何もありませんし、また無いことで成立する『無』ですら無い。ゼロの定義を忘れた息苦しさでしょう。

 後を振り返って、台詞や題材、舞台役者の身振り、手振りを思い起こすと。そこに何ら天才性も秀才性も見出せません。例えば、その客席の一割も観劇客が居なければ、演者は秀才や天才になりきってしまうでしょう。空しい自慰の悲しい喘ぎ声に過ぎません。演者を、奏者ですとか、筆者ですとか、著者に変えても同じです。ただ、たった一人素晴らしいのは、それらの表現を『受ける』側が何ら反応を返さない一人だとしても、自らの驕りや得意を捨てて訴えかける演者こそ。役者たりえるのです。同時にこれは物書きにも同じ事が言えるのではないでしょうか。


 誰が評価しなくとも、誰かが読んで少しでも感じて貰える様に文を磨き、時に文体を変え、最後まで『いないかも知れない読者』へ訴えかけ続けるのが、現代において文章で物書く人々に必要なことだと私は考えています。別にツイッターで書くべきことでは無かったかも知れません。
これを長々書いて、何の名声もフォロワーも、お気に入り登録が殺到するですとか、リツイートで一夜にしてまとめられる有名人になる訳がありません。でもそれで良いのです。偶々目に留めて、流し読みして、誰かや何かの航路日誌に数文字記憶に留めてくれるなら。

――だから私は物を書きます。絵は描けません



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