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残暑の記憶
著作:藤 秋人

 もし、この空を飛び越えて行けるのならどんなに幸せだろう…。
 今日もそんな事を考えながら過している。

 

 こちらが攻めればあちらが反撃し、あちらが攻めればこちらが報復する…そんな状況になってもう何年になるのだろうか。誰しも思っていた事、それは 『この争いはすぐ終わる』 と。でも現実は厳しい。もう何世代がこの争いの中、命を落としたのか。誰も覚えていない。覚えているのは一つの記憶。それは残暑の記憶。

 

 いつか遠い遠い記憶。
 それは出航の記憶。
 幾千の人達が手を振っている、歓声を上げている。隣にいた人が、大人の人が言った。

「あれは本当に嬉しいんだ。俺たちがいなくなって本当に嬉しいんだ。いいかい嬢ちゃん、良く見ておくんだ。あの青く拡がるのが嬢ちゃんの空だ。橋の手摺りに止まっているのがトンボだ。全部、何もかも嬢ちゃんや俺達の物だ。大切な故郷なんだ。……いつか、いつか帰ってこれる日までコイツを、この風景を忘れるんじゃないぞ………」

 そんな言葉を聴いたのはいつのことだったのだろう…。もう誰も覚えていない。

 船がゆっくり上昇する。空へ、空へと。人影が段々小さくなって行く。
 夜と昼の境目、光の波がのたうちまわる蒼い海。

「わぁ…」

 思わず声を上げていた。私が住んでいた所はとても綺麗だった。
 と、同時に思い出すのはお母さんの瞳。
 どうして、どうしてお母さんは木で出来た家の門の前で、泣いていたのだろう。
 もう会えない訳でもないのに。

「私は帰ってくるのに」

「お母さん………」

 最早、大気圏を突破し重力の鎖を解かれた船は目的地へと進む。何の迷いも無い。少女の見た蒼が徐々に小さくなって行く。知らず知らずの内に彼女の体が浮き上がる。ふと、不安に駆られる。見渡せば巨大な船はどこまでも続く白亜の通路。無機質な照明が彼女の肌を白く照らす。

 思えばあそこには全てがあった。光の輝く海があった。蝉の鳴く森があった、そこには誰よりも優しい誰かがいた。

 

 少女は泣いた。初めて分かる別れの悲しみ。暑いと駄々をこねた熱帯夜と静かに響く風鈴の音…思い出。

 

「帰ろうよ、家へ。僕らの家へ」

 一人の少年が彼女に手を差し伸べて、言った。

「一緒に、帰ろう…あの夏の日へ」

 それはとても穏やかでそして固い決意を帯びた目であった。

「うん、かえろうよ」
 少女は泣き笑いのまま、そう答えた。

 

 彼らは帰る、あの残暑の記憶を目指して。
 彼らは戦う、居心地の良い故郷を求めて。時に虚構で自らを慰め、そして何もかも忘れて目的のためだけに戦う。何もかも忘れて。

 

 最早、どこにあるのかすら分からぬ 「残暑の記憶」 を夢見て。

 今日も人が死にました。
 私は地球に帰りたいだけなんです。
 死んでいった人達を返して下さい。

 誰かの日記にそんな文句が書きつづられる、そこは死骸を重ねた偽りの楽園。
 「カラン」 と乾いた風鈴の音だけが光ささぬ縁側に響いた。

 

(完)