Top > Original > 夕焼けのメビウス(No.021)

夕焼けのメビウス

原案提供:薊野成美
著作:藤 秋人
*第1回リクエスト企画作品



 一日と言う時間が淡々と過ぎてゆく。

 朝日が昇り、人々が街へと繰り出す。公園で憩う若いカップルや、日に当たりに来た老人。嬉々として輝くそれらと共に日はゆっくりとオレンジ色に染まる。

 ふと気が付けば一日の大半が終わろうとしていた。


 何もかもが色褪せて見える中で、たった一つだけ鮮明に感じる時間。
 それが自分にとって、夕暮れだと言うことか。


 想いは過去へと遡る。悲しくも懐かしい、今に至る全ての始まり。



 放課のベルが講義室に響き渡る。教授が講義の終了を告げるよりも早く生徒達は外へと飛び出してしまう。ある者は部活動に精を出しに、またある者は帰宅の途に着く。

 たった数十分まで一人の話を聞き、それを書き留めていた意思の大群は、あっと言う間に霧散してしまったように思えた。最後までしっかりと場を留めておけなかった事を口惜しく思いながら担当教授は講義室を去る。

 後には誰もいない静寂に包まれた講義室だけが在るはずだった。
 立ち並ぶ長机、前から数えて六列目のそこに黒い山のような物がある。物の怪かはたまた一種の自然現象なのか、それは只存在している。時折り、山がゆっくりと上下し小さな寝言のような音を出すに至って始めて、山が人間だと気付く者も少なくない。

 綾川 由里とは概ねこのような人物だ。
 講義には欠かさず出席するものの、一度として真面目に教授の話を聞いていた試しがない。九十分の講義の内、十分起きていればいい方だろう。酷い時は五分以内に眠りの世界に飛び込んでしまう。

 そんな彼女を誰も止めはしなかった。
 教授も他の生徒も。

 彼女の存在自体が空気のようなものだった事が原因なのかも知れない。彼女自身は非常にありがたく、この状況を喜んでいるのだが。
 そもそも、全二十コマの講義の内、既に十五コマが消化された時点で誰とも面識がない人間と言うもの自体が珍しく。その変わりようから彼女に話し掛けることは勿論、気に止めることすら皆ためらっていたのだろう。

 現に今も彼女は突っ伏している。他の学生が思い思いの自由を謳歌している放課だと言うのに彼女は只々、そこで惰眠を貪っているだけ。


 やがて時間は流れて夕暮れのオレンジが窓から差し込み、彼女は目を醒ます。
 別になんの感傷も感じないオレンジを、その身に受けながら立ち上がる。

 包み込む静寂。窓の外を見下ろせば、まばらに歩く人の影。

 好きだったのかもしれない。そう、彼女は思う。
 教授の講義も、他の人間と他愛の無い話に花を咲かせるのも。
 いつしか、興味を失っていた。気付けば、空気みたいな存在に自分はなっていた。
 それが当たり前の日常に変化していく事になんの違和感も感じない、そんな自分が怖かった。でも、誰も自分を見なかった。

 既に自分が空気になってしまった事に衝撃を受けた時も、確かにあった。


 でも、今は。


「空気のような、何でもない」

 少し悲しくなった。誰もいないここで呟いても、聞く者などいない。
 さて、もう帰ろうか。

 そう振り向こうとした刹那―――


「空気のような…、何でもない。の後はなんだい ?」

 思わず身を縮め、慌てて振り返る。講義室の扉に寄りかかるように男がこちらに向かって微笑み掛けていた。

「誰 ?」

 自然と口が動いた。

「空気のような、学籍番号57021−90、法学部二年の三崎」

 自分の呟きを彼は聞いていた。驚くと同時に嫌悪感を感じる、不思議と勝手に口が言葉を紡ぐ。

「そう、確かに空気のような存在感。同族を見つけた気分ね」

「ほう…」

 感心したように三崎が頷く。

「んじゃ、空気みたいに自己紹介。綾川 由里、学籍番号198067…ええっと、兎も角。残念ながら法学二年」

 中々上出来じゃないか、彼女は心の中でガッツポーズを取った。
 はずが、しっかりとポーズを取ってしまっている。

「おー。ロック」

 なんともサマになっている夕暮れに染められた彼女のポーズが、三崎の目に飛び込む。自然と呟いた言葉は実に間の抜けた口調。今までの彼が体験したことの無い感覚だった。


 ふと、遠くから学生の声が聞こえる、

『うっそ、それマジぃ ?』

 二人の時間が止まる。ほんの一瞬、或いは二十秒くらいだったかも知れない。
 お互い溜息をつき、呟く。


「「何がマジかって、これがマジかってこと(よね)」」


 再び止まる時間。先に腹を押さえて笑ったのは彼女だ。

 次いで彼もまた高らかと笑った。夕暮れの光がオレンジからより深みを出した放課の講義室。二人の他は均質化された空間だと言うのに、そこは生き生きと輝いているように思えた。なんでもないシンパシー、互いの笑い声が響き渡る講義室。

「あー可笑し」
「出来の悪い冗談だな、こりゃ」

 気付けば、二人は椅子に座り互いの背中をぴったりくっつけながらまだ小さい笑いを零していた。深みを増したオレンジが二人を染めている。

「空気のよう…ね」

 由里が誰に言うわけでも無いように言う。

「空気だって、色々あるぞ。窒素、酸素、二酸化炭素にアルゴン。最近じゃダイオキシンなんてのが流行ってるみたいだけどな。」

「何それ ?」
「空気中の成分とか」

 そして、忍び笑い。
 なぜだろう、そう三崎は思う。ただ、偶々寄った講義室。入学してから殆ど足を運んでいなかったそこで、一人自分に酔ってそうな女を見つけたから声を掛けた。それで、相手が何となく嫌そうな顔でもすれば、それだけだったはずだ。

 それが今は、

「ああ、成分ねぇ。結構役に立たない事じゃない ? 成分なんて知っても普段は意識しないのにさ」
「何言ってんだ。いざって時にコイツは役に立つんだぞ。絶対将来、『酸素は偉大だった』 って言う日が来るんだからなぁ。感謝のココロだよ由里クン。感謝の」

 とまぁ、こんなザマだ。
 似たもの同士かも知れない。そう思っても損はない筈だ。少なくても今だけは。


 他愛ない話は日が沈むまで続いた。どちらが意識する訳でもなく、端からみれば首を傾げざる得ない遣り取り。

 「またね」 と言うありきたりな言葉を交わして別れた。


 帰り道、由里はいい友達になれそうだ。
 そう感じた。



 けれども、次の日から今の今まで。三崎と由里が会うことはなかった。

 由里は卒業し、就職。日々の生活にどこか疲れ始め、いつしか淡々と日々を送っていた。実際あの日以降、彼女の存在が他者にとって心地の良いものであったり、共感するには不可解すぎたのか、彼女はともかく元の空気のような存在へと還っていった。

 そして、幾年かの月日を経て彼女は中心街に伸びる公園のベンチで夕暮れの光を浴びているのだった。

 閉じていた目がゆっくりと開く。何故だかとても充実した夢を見たような気がした。慌てて時計代わりにしている携帯電話をスーツの内ポケットから取り出す。

 デジタルが示した時間は17:15。そろそろ戻らないといけない時間だった。
 職場に戻れば、またロクにマニュアルも読みもしない初心者のサポートに戻らなければならない。そう考えると憂鬱が首をもたげる。

 空を仰ぎ、大きく息を吐きながら。

「あーあ、空気になりたい」
「まったくだ。」

 時が止まった。

 オレンジだけが、彼等を包んでいる。公園の沿道を歩く人はだんだんとまばらになりつつあった。

「まさか…とは思うけど、三崎 ?」
「覚えていてくれるとは光栄だねぇ、由里クン」

 偶然とは恐ろしい。思考が見事にユニゾンしている事を二人は気に留めることも忘れていた。
 夢の内容が鮮明に再現されたと言うにふさわしい。あの夕暮れの講義室でのノリのまま、意識もせずに由里は言葉を紡いでいた。

「今、何処に勤めてるの ?私はAHのサポセン勤務なんだけど…」

 彼の顔を見れば、こちらを見ながら唖然としている。何秒かの沈黙の後、彼は。

「…ああ、俺は今AHのサポセン勤務なんだけど。」

 たっぷりと時が止まった気がした。可笑しくて可笑しくて、
 大きく足を振り上げ地面に下ろし立ち上がる。

「うそだぁ !!!!!!」




「おー、ロック。」

 夕焼けの下で、何時かと同じ笑い声が響いた。
 何となしに思う。『コイツとは面白くやっていけそうだ』
 夕暮れの光がどこか痛い、そんな色褪せた濃い日の出来事。