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タイトル:どこかの記憶
藤 秋人
公開日:2006/03/10


 とても不思議な夢を見た。正確には、いざなわれたと言っても良い。
 俺? 誰だって良いだろう。ただ、一人述懐するのに、自己紹介も何もいらない。第一、自分に対して自己紹介するなんて本当、どうかしてる。

 その夢を、単純な連想だと割り切るには余りに冷酷なように思えて。
 その夢を、確かに在った記憶や事実と言うのは馬鹿げているとしか言い様がない。


 その日、軽い仮眠を取るために目を瞑った。

 自らの額に腕を覆うように乗せて、その重さを只々感じていた。それは、誰かに触れていたい―― 寂しさから来る欲求に対して、本能的にそうしてしまったのかも知れい。やがてまどろみ、眠りに落ちてしまうのだろう。その為にベッドに横になっているのだから。

 うん、もう少しで眠ってしまう。
 そんな時だった。

 セミロングくらいの深い藍色の髪をなびかせた女が自分に向かって微笑んでいた。
「ねぇ、あのフィンランドの河馬パパが夢に出てきたらどう思う?」

 なんて事を唐突に言うのだろう、この女は――


これはどこかの、記憶。


 誰だ? 咄嗟に身構えてしまう。だが、体はピクリとも動かない。なるほど、既にこれは夢と言う訳か。そう納得してみるが、しかし目の前の女は一体誰なんだろう。コメントし辛い質問をしているにも関わらず、彼女は特に気負った様子もなく俺の答えを待っているようにも思えた。

 なんとか答えようとして口を開こうとする。声は出ないが、声は届いた。

「そうだよね。あの、ぬぼーっとした顔が夢に出てきたら吃驚しちゃう。ちょっと想像した? あのトロールのパパがパイプをふかしながらそっちを見るって夢」

 あんた誰だよ? そう聞いてみようと思ったし、実際強く思った。
 だが、声は届かない。何を言ったかは知らないが、彼女がうれしそうに笑う。

「行こうよ」

 利き手を握られ、引っ張られる。彼女が誰で、どこに自分を連れて行こうとしているかは想像すら出来ない。でも、繋がれた手の暖かさを俺は夢から醒めた後も覚えている…… 否。目が醒めても、覚えていた。




 Alice in Wonderland―― 邦訳タイトルは、不思議の国のアリスと言う。
 少女アリスが、三月兎を追いかけて不思議の国を旅すると言うルイス・キャロルの名作。自分はあの時、そういう世界に迷い込んでしまったのかも知れない。

 いつの間にか、世界は色に満ちていた。夢を見続ける俺の主観に色はない。黒板に白いチョークで書かれたような世界の風景が溢れている。にも関わらず、色を感じ、風を覚えるのはどうしてか。

「―――ねぇ、聞いてる?」

 ああ、まただ。彼女が心配そうにこっちを見てる。どこか憂いを帯びた表情は、何かにおびえているようにも見えた。夢の中の俺は、何でもないよと笑う。親しげに彼女に笑いかける。それを聞いて彼女に表情が華やいだ。夢の中の俺……

 いや。
 夢の中の俺は、ほっとした。何故、ほっとしたのかは彼女の事を知らない "こちら側の俺" には分かりもしなかった。俺と彼女は座っていたベンチから立ち上がり、歩き出した。二人が歩く風景には見覚えがあった。

 それは、九十年代の町並みで。
 歩く二人の表情はどこかあどけない。未だ、六月に半袖のシャツを着なくともよかった昔の風景が拡がっていた。通り過ぎる車の車種も、どこか古い。携帯電話を手にする若者も少なく、髪を染めている人もまた少なかった。

 街の中では、彼女の藍色めいた髪はとても目立つ。
「ねぇ、この後映画みたいなー。狂おしいくらい映画みたいぞぉーって言う君の心の声が聞こえたんだけど、どうしよっか」
「言っていないし、思ってもいなければ伝えてもいないっ! ねぇ――さんは映画みたいの?」
「うん」

 誰か分からない彼女と俺が親しげに喋る。気負いもない、遠慮もない。
 端から見ればとても楽しそうで、俺はそんな二人の事を何も知らなくて、少し歯がゆさを覚えた。


 実際、夢に導かれて異世界に…… 或いはパラレルワールド (平行世界) に…… と言ったストーリーは数多く存在する。俺と彼女が暢気に歩いていた街の書店にもあれば、古い記述にも似たようなものなら枚挙暇がない程。
 たとえばこれら全てが夢だとする。夢とは、記憶の整理であると言うし、抽象化した事象を再構築する作業とも言われる。つまり、彼女と俺のさしずめ過去への巡礼は、単なる最適化途中の産物に過ぎないのかも知れなかった。


 次に聞いたのは、苦しみ喘ぐように声を絞り出す彼女だった。
 どこにいるのかも分からない。なぜ、彼女が苦しんでいるのかすら分からなかったが、一つ確かな事は危機的状況にあると言う、その一点だけは。

 俺も、 "こちら側の俺" も正しく理解していた。
 だから、俺は恐れていた。歯の根が合わないと言って間違いないくらい震えていた。
 腕の中には彼女がいる。藍色の髪は、汗で張り付き苦しそうに息を吐く。ついさっきまで軽いステップを踏んでいた彼女が、何故だ。

 ツンと漂ってくるのは土の匂いだ。木々のざわめきの中、彼女と俺しかそこにはいないようだった。俺と彼女が何を喋っているのか、はっきりとは分からない。但し、避けがたい致命的な何かが彼女に起こりつつあることは事実らしい。
 夢越しに、或いは彼女を支える両腕のこわばりからか。俺自身が彼女に降りかかるそれを、必死に否定しようとしていることが伝わってくる。

 木々のざわめきだけが、やかましいくらい良く耳につく。
 俺は必死だった。端からみて、滑稽なくらい必死だった。自分自身ではこれっぽっちも信じちゃいないような事を彼女に吹き込んで、無理やりにでも事態を好転させようと思っているように見える。

 彼女は辛いながらも微笑もうとする。えずきそうになりながらも、頷く。
「うん、そうかもね。――が言うんだから、そうなるといいなぁ」
「そうだ、だから無かったなんて口にするなよ。今は間違いなく二人っきりだから」

 話の流れが分からない。こちら側に俺の意識が逆流してきて、何だかこっちまで絶望的な気分に支配されそうになった。耐えた、それは向こう側の俺と彼女も同じはずだから。奇妙な連帯感を持っていることなんてどうでも良い。
 毒を食らわば皿まで、そうとも言う。

 風が冷たくなるにつれて、彼女の呼吸はどんどん穏やかになっていく。
 それを必死になって抱きしめるだけの俺。もう処置なしとあきらめているのかも知れないし、逆にそれが事態の好転を呼ぶもので只々、喜んでいるだけのようにも見えた。

 二人の…… 特に向こう側の俺の気持ちが、想いが伝わってこない。

「記憶って」

 やけにしっかりした口調で、彼女が喋りだす。
 向こう側も、こちら側も、どちらの俺も黙って聞くしかなかった。




 例えばの世界、若しくはIFの世界と言うものがあることは、良く知られている。
 それを題材にした小説もあれば、それを元にした哲学があり、学説があり、宗教がある。とどのつまり、人間はIFから逃れられないだけなのかも知れなかった。

 夢は、ただ垂れ流される。

「記憶って、いい加減なものだよね。家の鍵の場所だって忘れちゃえば、たとえ食卓の上に転がっていたとしても無くしてしまったことになっちゃう。本当は箪笥の裏にあるへそくりだって、全部無くなったことになっちゃう――」
「お前は無くなったりしないさ。これだってきっと夢だ、起きたらまた全部元通り。簡単だろ?」

 絶望的なトーク。
 黙って聴くことを知らない向こう側を恨む。

「聞いて、忘れないでなんて言えない。でも、楽しかった。映画も面白かった、スフィンクスから沢山の兵隊が出てきたシーンで飛んできたくじらが印象的だったよ。
 公園で、モール三番地で、一緒に行った所も全部覚えてる。好きだよ、大好き。でも忘れてなんていわない。忘れていいよ、なかったことにして。
 で、でも…… ね」

 木々のざわめきが、より大きくなる。強い風が吹いて俺と彼女のいる場所に僅かながら光が差していることが分かった。どこかの三流ドラマのような展開。だが、感動だとか、なんだとかの実際は三流くらいがちょうど良い。

 その重みは傍観者では分からない。本人達が感じる無力感や慟哭を只眺めるだけで知りようがない。そして、多分。俺は俺ではない、だから彼と彼女の行く末をただ黙って見つめていた。

「事実は消えないよね。なくしてたへそくりも、置き忘れた鍵も。そこにあった事だけは間違いないっていえるんだから。うん、――が言ってくれたのも本当だと…… 思うなぁ」

 強い風が吹いて、彼も俺も目が眩んだ。
 気づけば、そこには彼しかいなかった。

 立ち上がり、呆然とするだけの彼は暫く思いを巡らせていたようだが、何か思いついたようにそこを去ってゆく。後には彼と彼女が必死に互いを励ましあっていた場所だけが残されていた。

「行こうよ」
 彼女の声が聞こえる。
「好きだよ」
 彼女の声が聞こえる。
「そろそろ、ご飯にしようか」
 彼女の声が聞こえる。
「まさに異色のファンタジーだったね。砂漠を飛んだくじら!」
 彼女の声が聞こえる。
「少し怖いよ」
 彼女の声が聞こえる。
「忘れてほしくない」
 彼女の声が聞こえる!
「いかないで」
 彼女の声が聞こえるのに。

 どうして、俺はいなくなってしまうのだろう。

 夢の終わりを覚えている人間は少ないと言う。それは睡眠中に見る夢はいくつもあって人はそれを完全に覚えることが出来ないらしい。

 なら、この夢の終わりは、どの不思議の国の出来事だと言うのだろうか。




 失意のどん底にいるような気分に嫌気が差して、目を開けた。いつもの天井、二千年代のカレンダーが目に入る。どうしてか、悲しくなって泣いた。みっともないくらいメソメソした。エアコンのお陰で涙は速やかに乾いていった。

 結局、俺は知らない俺と知らない女の為に泣いた。
 夢はIFへの扉だったのかも知れないし、夢は単に夢に過ぎなかったと言うのが解のようにも思えた。


 独白が終わった。
 目の前には何本もの酒瓶。流れるジャズはモダンジャズで、どことない雰囲気作りに一役買っている。何杯になるか分からないジンをあおった。

「それで、初対面の私を飲みに誘った…… と?」
「そう、一番分からないのはなんで夢の中で君は、妙な話題を振ったのか。もし、それ自体がIFや現実なら何らかのアクションが帰ってくると思ってさ」
「要は、君も私も暇ってことね」

 ため息。
 偶々、母校に挨拶に行った時。今年で卒業すると言う彼女を見つけた。それは、正しく夢の少女が成長した姿と言うにふさわしく、藍色の髪がさらさらと揺れる様を見て間違いないと確信した。

 なにやら訳の分からない話題を振り、あれこれ言いくるめてバーまで連れて行った。有体に言えばナンパである。

「で、どうだろ」
「うーん。なかなか出来たストーリーだと思うけど、今ひとつ決定打に欠けるなあ。どうして夢の中の彼女がそうなったのか、気になっちゃうかも」
「だな。現に俺に至っちゃ、こうして正にその人と思われる君……」
「みのり」

 そんな名前だったのか。

「そうそうみのりさんを、ずるずるとこの奇天烈な話につき合わせてるもの」
「まぁ、お酒の肴やナンパの理由としてはベタだけど。小説みたいで面白いよ。悪くないと、思うな」

 曲がアップテンポのものに変わる。
 故郷を歌う、誰とも知れない曲。知ってるやつは知っているんだろうが、おそらく知らない奴はだれも知らないそんな曲。

「記憶なんていい加減なものだから、でも」
「でも?」

 呟く、みのりさんの言葉の先を促す。
 彼女は、少し懐かしいものを見るように俺を見て。

「夢だと思っていたものは、案外誰かの記憶なのかも、ね。くじらの話も思い出してくれて嬉しかったり…… うん私は今も、好きだよ、大好き? かな」

 そう意味深な、答えのような。それともIFを感じてしまいそうな、彼女の言葉。俺には、音楽にかき消されてしまって届かなかった。嬉しそうに、はにかむ彼女を見て。俺は、不覚にも頬を赤らめてしまった訳だ。