Top > Original > "無題(20070409)"(No.036)

無題(20070409)
藤 秋人
公開日:2007/05/10
* サークル たらいがえし 時限創作第一回提出作

 じりじりと地面を焼く太陽が眩しい。同じく、じりじりと…… こちらは鳴いている蝉の声。聞こえれば、自然と汗ばんでしまうのは致し方ない事とも思える。暦は未だ文月であり、小学校の夏休みとて先の話。気温も手ぬぐいが必要と言う程でも無い、雑なアスファルトの一本道と生い茂る木々に囲まれた小道、緑すら白く染め上げんばかりの光が何処か盛夏を思い起こさせるのだろう。

 作業服の胸にプラスチックの名札、○○市総務課と書かれた自分は公務員だ。都市一極集中は出生率が上向き始めた二十一世紀半頃になっても何一つ変わらなかった。高層ビルがいけないと言われて、都市が地面の下に潜り込んでもう数十年が経っていた。都市から出た廃熱が地方の一次産業に還流されるようになった頃、ようやくこの国に安定した気候が戻りつつあった。何もかもが上手く行っている―― ふと、気付けば地上に住むのは老人と一握りの金持ち。あとは、好事家がみすぼらしい東屋に棲んでいるくらい。

「伊吹…… トキコさんね」

 ○○市、旧芳野区単眼町三丁目。瓦葺の二階建て、築八十年の鉄筋コンクリート住宅。彼女は空家しかない古の街で独りで住んでいる。私の仕事は、小さなこの町の中心街に移り住んでもらえるよう説得すること。
 長寿命化の代償は、行き届かない福祉だった。この時代の高齢者は、自分の生き方を自分で決めたいらしい。二十世紀の老人観を打ち破り続ける彼らも数十年前にはこうして、或いは自分と同じように歩いていったのだろうか。ふと、そんな事を考える。

 歩き続けること、ゆうに十キロ。メンテナンスされていない道路なので、車両が進入出来ない。ちょうど午後二時の太陽が、私の思考を歪ませて行く過程を肌で感じていた。陽炎に揺れる伊吹宅が見えたのはそんな、暑い午後のことだった。




「菅野さん? どうぞどうぞ、上がってくださいな」

 伊吹夫人は八十歳には見えない確りとした足取りで、私を客間に通した。使い古されたのだろう四人掛けのダイニングテーブル。ビニールクロスが張ってあるものの、そこにもまた小さなキズが目立つ。時代遅れの液晶テレビから、ワイドショーの下世話な笑い声が響いていた。

「いえね、あの液晶も亡くなった伊吹が未だ娘の手が掛かる時期に買ったものなんですよ。バックライトも何度変えたか分かりませんし。チューナーにしても私にはもう何がどう繋がってるかも分からないんです。古いでしょ?」
 確かに古いとは言えず、曖昧に笑みを浮かべるしかない。伊吹夫人と、この家。過去、幾度と無く職員が引越しを勧めても彼女は首を縦に振らなかった。主人との、娘との、孫との…… 一度築いた思い出をどうして捨てることが出来ようか、と。
「おばあちゃん、来月からね。ここ電気とガス、水道も止まっちゃうんだよ。だから引越ししませんか? って今日は来たんだけどね」




 あら、そうなの。じゃあ、仕方ないわね。

 そう一言呟いて、部屋の風景から明らかに浮いている最新式の安楽椅子に彼女は腰掛けた。そのまま、一九七〇年代アメリカに居たであろう老婆のように、キイコ、キイコと椅子を揺らす。

 気まずい時間だけがただ、流れた。
 時折ゆれるレースのカーテン、くぐもった風鈴の音が彼女の落胆ぶりを表しているようにも思えた。




 帰り際の事だった。もっていきなさい、よければ食べて?
 伊吹夫人が、何時買ったのか分からないアイスキャンディーをくれた。

「どうも」

 少し歩いて振り返って、手を振った。玄関で日傘を差して、さも億劫そうにふらふらと手を振る夫人の姿が印象的だった。アイスキャンディは、つい半年前に販売が終了した五十円のものだった。噛むと、キーンとしたソーダの味がした。




 伊吹夫人が亡くなったと聞いたのは、ちょうど旧芳野区単眼町再開発工事の起工式の夜だった。福祉課の知り合いから、態々連絡があったのだ。
 あの日、貰ったアイスキャンディの棒には「あたり」と書かれていた。夫人が未だ少女だった頃なら、店でもう一本貰えるなと、知り合いに話したので掛かってきた電話だったのかも知れない。

「お前に、これをやってくれってよ」

 それは、夫人が病室の冷凍庫で冷やしておいたのだろう、あのアイスキャンディーだった。貼られた紙には「スガノさんへ」と夫人が書いたのだろう唯一若さを失っていないであろう丸文字だけが踊っていた。