Diary......SEPTEMBER 2004
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2004/09/24 title = ベタベタな恋愛小説を書く理由
 私が書く恋愛小説はひじょうに都合が良い。純愛と言うならそうかも知れないし、お涙頂戴と言われても反論できない… そんなものが多い。

 だが、現実の私が理想としている恋愛はそう暑苦しいものではない。暑苦しい恋愛も随分前にした覚えはあるが、いつまでも心地よいものではなく、時間が経てば経つほど鬱陶しくなってくるものだった。愛し合うからこそ、スタイルも時間に合わせて変えていかなければならない。いつか終わった自身の恋愛についてそう総括する。

 にも関わらず、同じような恋愛を活字にしてしまうのはどう言う訳か。
 それは、意思に反する憧れなのかも知れないし。話になるとすれば、そんな恋愛を読んだほうが気持ちいいのかな? なんて思っている自分がいるからだろう。生憎、愛憎を巧みに描写し男女の愛を描くほどの文章力は持ち合わせていないし、恋愛小説家なんてのはどうも痒くてしかたがない。

 そう言えば、最近読みに行っているサイトの小説。複数あるがどれも面白く、自分がこうしてWebに物語を晒している事が恥ずかしくなってくる。無論、感想を送ったりご挨拶に伺いたいのだが何時の間にか、怖気づいてしまい中々踏み出せない。
 現実世界でもどんどん人付き合いが億劫になったり、話しかけようと思っても頭から停止信号が入ったりと… どうなってんだか、俺。


2004/09/22 title = 答えを求め、溺れる
 古人曰く、『人間は考える葦である』。
 その言葉通り、常に人は考え続ける。理不尽な世界を紐解こうとしているのか、はたまた自己を問い続け当ての無い思索を巡らすのか。それは人によってさまざまだが、一つだけ共通するのは答えを追い続けていることだろう。それは、これを書いている自分にも当てはまるように思える。

 例えば、情動、不意の悲しみ。湧き上がる感情や、途方も無い喪失感、はたまた冴えるようであり失うことにも似た冷静。そのいずれに対しても、答えを求める。もっともらしい客観的な答えを用意したくなる。そして、主観と照らし合わせ初めて納得するのだ。
 これも一時的なもので、では… どうしてそう納得してしまったか。結局、墓場まで引きずって行くのが人間なのかも知れない。納得した、フリをして生きてゆく。これは思春期に見えた汚い大人の姿だろう、よく小説の題材や描写であるようなものだ。

 同じように、世の中には生を卑しいものだと思い、死を至高とする考え方がある。しかし、信仰の徒は得てして懐疑的だ。だからこそ、常に否定し肯定する。結果として元の信仰を取り戻し仮初の答えを得る。しかし、彼等は溺れていると言っていいだろう。

 これは、生を尊び死を嫌う考え方にも共通する。人間は常に考える生き物である、痴呆が進んだ老人や、胎児ですら考える。

 先日、原作:森村誠一の 『人間の証明』 と言うドラマがあった。その内容とこれは噛み合わないかも知れない。では何故、このタイトルを担ぎ出したかと言えば。考え続けることこそ、何より 『人間の証明』 になるのではないだろうか。そう思ったからだ。

 そう考えれば確かに人間は考える葦なのかも知れない。自ら選んだ世界で、自らに溺れ、簡単に死んでしまうのだから。

--追記--
 頭ごなしに人を否定してはイケナイ。よく言われる言葉だが、頭ごなしに他人を否定する… それもまた人間を証明しているのでは、と思う。人は、否定し続ける代わりに自己を肯定しつづけなければならない。例えばそれは、自分を守るためだったり、保持する為には重要なことなのだろう。


2004/09/19 title = 流れるままに、再び
 惰性だろう、自分で分析した限りではそうだった。

 ほんの一時だけ喜んでいた自分は一体なんだったのか? 今でも分からない。暫く忘れていた感情、持て余すだけで行き場がない。幾年前とは声も、姿も変わってしまった自分。対して思い出の時間は進まない、常に停滞し刻み込まれた一瞬を静かに浮かばせる。だから、悲しいのかも知れないし、嬉しいのかも知れない。

「涼しいね」
「あぁ、涼しいな」

 かつて会話を交わしたこともあった。なんて事の無い、日常。そいつが得難い物であることを分かっていながら、どこかで無視していたのだろう。
 奇麗事や難解な表現を用いても埋まらない何か。それは焦燥めいたものなのか、単に悲愴に満ちたものなのかすら分からない。おおよそ人間なんてそんなもので、答えを求めながら死んでゆくものだと先人は言う。

 さて。色々と書いてきたが、結論から言えば大分寂しい人間に最近変わってきたのかも知れない。余計… いや、余裕を持って何かの構想を練ったりすることができないのか。気の乗る時は物を書くが、それ以外は仕事に逃げたり満足したフリをする。そいつは、とても楽な事だ。

 反面、不意に心が軋む。自分一人でどうにかなるかどうか、そのキャパシティが上がっていればいいのだが。それに耐えかねる時、人間と言う奴はどうしても温もりや異性… 精神的なパートナーを求めるのだろう。そんな日は来なければいい、一期一会と言う言葉があるとおり出会い共に過ごす日々があれば必ず別れが来る。人は、一人で生きていける強さを身に着けなければならない。
 自分の意思に反していても、自分を守るために。


2004/09/14 title = 一人きりの休日
 と題して、休日の一日を記したい。

 そう思ったのは何時の事だったか。いっそ、小説にしてしまっても良かったかも知れない。しかし、自分ごとき人間の生活を誰が好き好んで読むだろうか。そんなことは、深く… でも、どうでもいい疑問だ。
 偶には、自己顕示欲に身を任せてもいいと思う。
 いつもそう? 気のせいであって欲しい。

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 仕事柄いつも休日は平日だ。世間が休んでいる時に働き、逆に世の中が忙しい時にひっそりと休む。そんな彼の朝は、おおよそ午前九時ごろから始まる。
 鳩は、都会の無意識だと誰かが言った。ならば、先ほどまで見ていた夢はなんだったのだろうか。などと、大概彼の夢はどうでもいい謎に包まれている。今日もそうだった。些細なことだ、そう理解していても潰れたシュークリームのような脳みそは考えるのを止めない。起きていると実感するのに何時間も掛かる。
 それが彼の休日、一人きりの休日であった。
 何となしに外を眺める。行き交う人々が、まるで別の世界の住人に見え彼は、自分がどこか知らない土地から来たような錯覚を覚えた。会社へ急ぐスーツ姿の男、和気藹々と歩いてゆくカップル… 自分には無く、他人にはあるのだ。そんな強い何か負い目のようなもの、常にそれに脅かされていると感じるのだ。コンプレックスか、はたまた病か。

 自問自答。

 良く出来た茶番だと、我ながらそう思う。彼は独白する、聞いているものは誰もいない。ただ、声が響くだけで応えるものなど居はしなかった。
 虚しい。唐突にそう思うのではない、じわじわと皮膚が焼けて行くような、足の指先から頭まで。ゆっくりと何か得体の知れないものが自分を侵してゆくようだ。こうなると、ただ震えることしか出来なくなる。ゆっくり、ゆっくりと彼の弱い部分が露呈する。決して他人には見せたくない、けれども曝け出して楽になりたい。そんな矛盾、どこにでも溢れた矛盾。

 人として、欠けているものを求めるのは当たり前のこと。例えば、そばに誰か居て欲しいと願うなら誰かを傍に寄り添わせることが出来るよう努力する。こんな簡単なことすら、彼にはできない。怖いのだろうか、それともどうして孤独が心地よいとでも言うのだろうか。

 一人には慣れている、と彼は言う。

 そんな間にも、思考は流れ時間だけが徒に過ぎる。気づけば日は沈み、夜の世界が押し寄せていた。
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 暗い… こんな生活をしているからいけないのだと、小一時間自分を説教してやりたくなった。


2004/09/09 title = さて何を書こうか?
 大行進フェスタも、当初の目的を果たせないまま終わった今。折角書いた作品をゆっくり推敲する時間が出来たと言う事になる。公開時期を気にせずに、書きたいものをじっくり書いてみてもいいのかも知れない。
 そう思ったのは、つい先日のこと。少しの間、日記も止めてゆっくり小説を読んだり音楽を聴きながら書くのも楽しいだろう… そう思い早速実行することにする。

 大行進フェスタの際、耳打ちしてくれた某氏の素材も調理したいし、文の重さや描写は稚拙でも一本の作品を仕上げたい。例えば、Sad systemはまだ導入部なので中々面白みがないような気がして、少し切ない。

 ともあれ、今まで通りちんたら… いやいや。ゆっくり書いてゆきたい。


2004/09/08 title = 誰でもなれる作家
 職業として絵を描いている友人と、食事した帰り道。
 ふと彼がこう言った。 「歌の歌詞って、良く聴いて考えれば… あまり意味がないよな」 そう言われ、果たしてそうだろうかと切り返した。

 私は趣味として、ライフワークとして物を書く。だから焦りはしないし、文字を効率よく情緒的に結ぶ技法を何十・何百万と掛けて勉強しているわけでもない。対して、彼はそれこそ莫大な金をつぎ込み業界で生きてゆくための知識を得て、今や仕事として絵を描いている。

 時折聞く彼の話す仕事の話は、楽しそうだが酷くつまらなそうに聞えた。

 絵描きとは、良くも悪くも芸術家的な趣を持つものだと思う。周りにいる絵描きが、神経質なだけなのかどうかは判らない。ただ、十何人もの絵描きと浅く広い付き合いをした立場から物を言うなら。彼らは一様に忍耐力に欠けるようにも思えた。何かを伝えたくて鬱蒼としている。それこそ、偏見だろうが。

 さて、話を元に戻す。私は答えた。それは一体何を基準にしてそう思ったのか、と。
 彼は答えた。己が聞いた最近の歌や、良く聴く洋楽の歌詞がそうであったと。

 では。そう私は口を開く、開かずにはいられなかった。
 日本語とはこれほど陳腐な言語なのか、音の響き仮名の相違による語彙の差や、漢字を使うことでより正確に伝えようとする事まで考慮してこう君は言うのか、と。

 ムキになっていたのかもしれない。

 さて、文字の陳腐さを語られて思うのは、今の日本語は確かに陳腐化してしまっている。例をあげるなら、邦楽の歌詞なども当てはまるだろう。至極単純な言葉を選ぶか、若しくは雰囲気を出すためなのか無鉄砲な語を用いたりする。
 恐らく、彼はそれを見て大いに嘆いたのだろう。何と陳腐で矮小なこと! とでも思ったのだろうか。往々にして文字を読まない、読めない人はこう言うことを言う。何故なら、彼らの世界では全て文章は己が技法で描かれた絵に変わる。それは漫画や映画など、視覚化されたものばかりを吸収することしか出来ない、現代っ子もまた然り。

 だからこそ純文学や現代文学などもっての他。いたる部分が強いコントラストで描かれ、強調ばかりで目がくらくらするのだろう。全てを読んだまま判断すると、文字に酔う。
 文字を読むにはコツがいる… 特に小説の類はそうだろう。小説は連想させることから始まる。まず見たまま読んだまま、判断させずに読み手の経験や記憶を掘り起こす。やがて、似た風景や思い出とか、読み手の記憶と経験を元に映像を読み手の心に作り出す。強烈な背景・人物描写はある意味で補完に過ぎない。
 そこを美味くブレンドし、作者の思うままの夢を読者に提供するのが作家だ。適度な改行を入れたり、視点を変えてみたり。作家は読者に世界を提供する為の努力を惜しまない。

 そのような意味では、絵描きも作家も… さして変わらない。
 ベストセラーとなった「13歳のハローワーク」を著した村上龍。彼はこの本で作家についてこう述べている。

 『作家は人に残された最後の職業で、本当になろうと思えばいつでもなれるので、とりあえず今はほかのことに目を向けたほうがいいですよ』(引用:13歳のハローワーク 村上龍著、幻冬舎刊 2600円[+税])

 もし、作家が人に残された最後の職業であるなら誰も文字を綴りはしないだろう。時に文字は歴史になり、またある時は刃になり、そしてある条件下で文学や文芸が生まれて初めて作家が生まれる。古代、人は絵を描き始めた。そして、ある時から絵は文字へとゆっくり変わってゆく。いずれもただ、 「伝えるために」 作られた。
 そして現代に至る。伝える手段としての絵画はやや廃れてしまった感がある。だが文字は、もっとも手軽で確立されたコミュニケーションとして根の部分を担っている。
 私たちは、作家になる勉強を必ずしている。およそ九年間、その間消えることがなかった現代文と古文。作家はこれをまともに身に着けていれば、あとは何を伝えようとするかが成否を分ける。決して誰でも安易になれるものでもないということだ。

 かなしいことに。もっとも、絵描きも安易になれるものでもない。



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