Diary......NOVEMBER 2004
管理人の主な行事→年末調整関連書類記入や、節制
今月の更新予定→ 暇が出来始めたので、停滞しているものでも執筆しようかな…

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2004/11/25 title = 中高生に見る学歴観と、選民思想
* 註) とても手抜き、推敲なし、校正なし、書き直しなし一発がき

 人間は今の世の中で生きていくために何かしらの職業に就くことになっている。例えば建設作業員だったり、ゲームクリエイターだったり、哀れなオペレーターや、ひょっとしたらテロリストなんてのも職業に当たるのかも知れぬ。

 しかし、職人でもない限り人生の中で職業を変えることは多々あるだろう。それは、結婚を境にしたり、死別と同時だったり十人十色の運命があると言うことか。

 さて、表題どおり今日は中学・高校生に見る学歴観について少々書き連ねる。学歴とは何かと言われれば諸兄知っての通り、どこそこ小学校を卒業しあれこれ大学を出た… と言う学びの思い出のことだ。
 今は社会に出てしまったものからすれば、おおよそ二つの意見に分かれるであろう。一つは、『学歴なんてアクセサリー以上、それ以下でもない』 と言う者と、『学歴の有無で人生の良し悪しが決まるのだ』 と言う二つの意見が大勢を占めている。

 この決定的に対立した二つの考え方に若い彼等は戸惑う。学業と言うものは、兎角与えられている間は面倒なものだ。しかも、それを紅茶の香りを楽しむように愛でなければならない。
 大概の人間は、愛でるどころか嫌悪感や倦怠感を覚える。 …と言う文章を見て嘲笑ったり、鼻で笑う諸兄も多いだろう。だが、彼等は既に学業を愛でて育ったか、面倒ながらも意義を見出しているのだろう。

 そんな彼等に、俗に学習塾や無言の圧力となり、時に宗教になりうる言葉が降りかかる。
 曰く、学歴が無ければ人間ですらない。

 文学に多少の覚えがある方なら、『平氏であらずんば、人にあらず』 と言う言葉を思い出すのかも知れない。そう考えればトンでもない妄言なのだが、二十四時間学業を中心とする世界にいる彼等にとってそれは聖書の言葉よりも尊いものになる。言葉の力は恐ろしい。
 とは言え、あながち間違いとも言えない。戦時下の国家で生きているわけではないのだから、ただ言われたとおりに動く機械のような人材など、どの企業もお呼びでない。求められるのは高度な教養と常識、そして発想力と実行力豊かな若者だからだ。
 そう考えると、間違いとは決して言えなくなってくる。むしろ正しいとすら思えるほどだ。近年は特に若者の間で専門職志向が強まっている (勿論、世相に反映してのことだろうが) ことを考えれば、確かに学歴が無ければ真っ当な社会人足り得ないのだろう。

 そして、今の若い世代の親に相当する人間は高度成長期の中、学歴と言う紙の上での価値でその芽を摘まれたと思い込んでいる。事実そういう部分もあれば、むしろ本人の精神的な成熟や才能で摘まれた機会なのかも知れない。しかし、親になり、或いは教師となった彼等が信じる価値観とは学歴であった。中学から高校、そして専門学校・大学へと。

 その過程をこなし、自分を見つめ道を開く。それが最良だと思っている。現に私ですらそう思う。それ以外の道は、今尚いばらで覆われた道なのだから。そして、最良が当たり前になれば、大衆はそれに従う。企業もまた然り。


 意識的に、そして無意識的に他の道を選ぶことは簡単だ。選択はいつも 「はい」 と 「いいえ」のどちらかしかない。
 そして、その過程でどうにかして自分の選択を正しいものだと思いたい。そう人は思う。行き着く先が選民思想だ。選民思想は読んで字の如く、「俺はボンクラ共とは違う、選ばれた… エリートだ」 と言う考え方である。今回の主題である中高生の視点に置き換えると、「俺・私は、社会で成功する道をあるくエリートだ、勝者だ」 と言うことになる。

 インターネット上で、中高生が集まる掲示板で良く見聞きするのが学歴とセックスの話題だ。もう少し何かないのか… と思うくらいそればかりである。そこで必ずあるのが、「勝ち組、負け組」 「学歴」 だった。
 学歴やらテストの点が優位に働くのは、大抵入社までだろう。付け焼刃で学を修めても活かせなければ、無くても同じだろうし。逆に学を愛で、共に社会を渡る時の道具として活かすならば確かに彼等の幸せを助ける一因にもなる。

 そして、俗に『学歴なんてアクセサリー以上、それ以下でもない』と言う連中なんてのは、学を道具や情報源として使っている者か、日々無意識に学び続け活かし続ける人間だけなのだろう。彼等にとって学校で修めた知識はあくまで 「常識程度」 以上の意識はあるまい。

 最後に、これを読んで鼻で笑うか、文章が可笑しいと思うか、何か考えるか。それは各々で。


2004/11/18 title = 無題
 時たま、気が狂ったように文字を書き連ねていこうか?
 脈絡もなく、ただ書き連ねてゆこうか?

 視界が実は四角ではなく楕円だと言うことを知った。新鮮だった、人差し指と親指で四角を作って眺めてみて改めて確認すれば完璧だと思った。だが止めた、出勤時に会った結局職場の先輩に話して終わった。先輩は、 「そうなんですか」 と感心したように (或いは厭きれたように?) 言った。その小さな発見は何だったのか、気づいた時の新鮮さなんてどこかに行ってしまうものだな、なんて考えた。
 帰りに、ローソンで売っているいちごマシュマロを買い頬張った。中にグミ状のイチゴがあり、なんだか嬉しくなった。こんな物が百五円で買えるなんて、日本は先進国だ… などと無邪気に喜ぶ反対側で、何を阿呆なと自分自身に呆れる自分がいた。

 救いがたい愚かさ。
 アイデンティティと言う言葉がある。自分らしさと表す、この言葉が嫌いだ。時たま、自分が誰なのかが分からなくなる… と言う曖昧な、使い古された言葉がある。
 絶えず、こうあって欲しいと言われた訳では無かった。別に、傍に誰もいなくてもそれはそれで良かったのかも知れない。何時しか、騒がしかったり、躁鬱の激しいキャラクターを自分自身の中に作っていたのかも知れない。

 今日のように文字でグダグダしている時は、大抵そんなキャラクターに愛想が尽きているころ。本性なのか、それとも安全装置的な考え方なのだろうか。何事も面倒くさく、排他的である意味で冷酷な自分が、何時もの自分をなじっているように思える。
 つまりは、何を考えてもすぐに、自分自身で否定してしまう。そんな日なのだろうか。

 ところで、最近。他人の善意と悪意の受け止め方、気にするべきかせざるべきかで面倒な思いをしている。やや気を張れば、善意の中に悪意や嫌悪感を見つけることは簡単で相手の気持ちや思惑を精一杯汲んでやれるだろう。しかしそれでは自分の気分が最高に悪い。
 一方で、悪意であろうと気づかない振りをしたり、意識しないのも簡単だ。相手にすれば単なる馬鹿をあしらえていると言う優越感に浸れるし、短期・長期的に見れば恐らく良い筈だ。少なくとも悪意を持った人間からは構われなくなるのだから。だが、馬鹿の振りをするのも中々疲れる。確かに賢いほうではないが、決定的な馬鹿でもない。

 しかし、こんな事で悩むのもまた馬鹿らしい、時間の無駄だ。と、何処かで考えている。少し前までは、面倒なら空想の中で自殺をすることにしていた。ぼんやりとイメージの世界で自分の首にロープを掛ける高い踏み台から一歩踏み出す。ある時は、高い建物から飛び降りるイメージ。そしてある時は、昔に本で読んだ電動ドリルで頭に穴を開けるイメージ。
 いずれも、悩んでいた自分が醜く死んでゆくのをイメージの中に見た。無様だと思った、結局はイメージなので自身は間違いなく生きている。けれど、悩んでいた自分は死んだ。そう思うことで均衡を保っているのか? そう自問することもあったが、要は 「慣れ」 だ。もう忘れた。

 夢か? そう聞いてみる。夢だ、声は応えた。だが、もう直ぐ夢でもなくなると声がニヤリと笑った。 ――-と言う一文が今書いている小説ある。まだまだ草稿だが、そうなる日も来るのかどうか。どうでもいい


2004/11/14 title = [習作・掌編]いつか見た夢
 波打ち際を歩いている。僕は僕ではなくて、他の誰か。歩いていることは分かるのに、視界には自分である筈のほかの誰かが夕暮れに向かって歩いてゆく。
 夕暮れに向かって… と言うことは西に向かって進んでいるのだろう。押し寄せる小さな海水が冷たいのか、時折よろめく。でも転びたくないのか腕を翼のように広げながら歩く。音は聞こえない、夢だから当然だ。でも、音を感じる一致しない情報けれど感覚として知っている音。

 いつしか、それを見つめている自分にも気づいた。自分である筈の誰かを見つめる自分自身の視線に。羨ましそうに僕は僕を見る。ただ、他の誰かが波打ち際をおっかなびっくり歩くのを見て、羨ましいと思いながら視線を送る。

 ただ、それだけのこと。夢になんて意味はない、夢になんて意味はない。
 例えば、起きている時が夢で眠っている今が現実なら。
 例えば、もう僕自身が死んでしまっているとしたら。
 目覚めたその時に、再びこの時に生まれたとしたら。

 夢は、夢じゃあなくなる。
 夢は現実になる。一瞬にしてすりかわる虚構と現実、そうして僕はまた知らない世界に放り込まれる。もし、それが現実ならと何度頭を振ったとしても、狂ったとしても。重く圧し掛かる世界に取り込まれ、世界に生きる以外の選択肢がなくなってしまうんだ。

「またか」

 いつか見た夢を見た。目が醒めると知らない天井ですらない、見慣れた白い天井があった。それだけで良かった。夕日が落ちる砂浜も、自分のような他人がおっかなびっくり歩く様ですら夢でしかなかった。
 皺のよったシーツもそのままに身を起こす。ベッドサイドにある灰皿に積もった吸殻を見つけ嘆息。まるでくたびれた犬のようになっている煙草の箱を掴み、湿気を帯びた煙草に火を付けた。

 紫煙がゆらゆらと天井へ昇ってゆく。ちょうど部屋の東側にある窓から灰色の光が入ってくるのを感じた。やはり煙草は湿っていた。やや苦味が増しているように思えるし、不完全燃焼に磨きが掛かったのか立ち上る紫煙の香りも心地よいとは言いがたい。

「くそったれが」

 煙草を灰皿に押し付け、ふと置いてあるフォトスタンドに目を奪われた。
 それはいつか見た夢。蘇った刹那の現実、かつて互いを比翼の鳥と認め合った女と自分。青臭いだけで何もできなかった糞ガキは、締りのない顔で笑っていた。あの夕暮れの海岸は、無くなってしまった。護岸工事だとか、そんな理由で今は立派な石の塊。

 女は。

 くしゃくしゃになったシャツを羽織り、無理やり制服を羽織る。どうせ夜直明けだ、服なんざどうでもいいだろ。

 フォトスタンドを伏せ、薄汚い部屋を出た。


2004/11/13 title = 小さな幸せ、一抹の寂しさ
 何気なくメールチェックをしていて、ふと目に留まったメールがあった。差出人は、いつか聞いた、そう… 暫く会っても話してもいない。

 友人。

 別なメールアドレスにメールを送ったらしく、返事が来なかったので嫌われているのかも、と思いつつも筆を取った旨が書かれていた。
 正直、驚いた。嫌われていたのは自分だと思っていただけに、何だか救われた気分になった。少なくとも、現時点で自分は嫌われてはいない。それが分かっただけでよかった。
 とは言え、友人は悲しみにうちひしがれているよう。慌てて返事を返す。

 その後、別なアドレスのメールについてもチェックし次の日には返事が返ってきた。何気なく嬉しい気分になった。久しぶりに交わす文字だけの会話、直接会って話していた日々見た友人の元気さの欠片が見えたような気がした。
 そうすると、今度はゆっくり紅茶でも飲みながらトランプでもしたいな… と言う妙な望みを持ち始めた。さてどうであろう? その友人とは、暫く会っていないし何より自分自身が結構、様変わりしたので友人が今の自分をどう思うのかは分からない。

 そんなことを綴って思う。自分は、結構臆病なのかも知れない。自分はすごく小さな人間なんだな、なんてことを考えた。

 対人関係におけるマイナス思考は、正直良くないとは思う。
 これが、儚げな女性だったり、詩的な詩人なら絵になると言うか、型に嵌るのだろうけれど。正直、どこにでもいる普通の田舎ものだから困る、困る。


2004/11/08 title = 火気厳禁
 揮発性の高いネタをどう扱うか。

 最近、継続・持続と言う言葉から最も縁遠い所にいる男の言葉である。そもそも彼は、根気強く何かをやるのが苦手だ。書くにせよ、何をするにせよ、一度にやらなければ達成感を覚えられないばかりか次に続かない。

 それが悩みだ。

 今、彼は迷っている。仕事にかまけて、ロクに趣味を同じくする人々と語り合えない日々。メール一通に数時間費やす性格上、休日に色々とやろうとするとあっと言う間に一日が終わってしまう。果たしてそれで自分は満足するのかどうか?

 反面、彼は分かりきっている。だが、それがいいのだ。
 一日を通して真剣に何かに打ち込む、そして満足したり苦悩する。そのプロセス一つ一つが自分にとっての喜びだと知っていた。そして、そうできるだけの設備もあるし時間もある。

 しかし、揮発性の高いネタをどう扱うか。最近、ようやく躁鬱の激しい人間だと自覚した男の言葉である。いつまで経っても進歩がないのか、もしかしたら退化しはじめているのかも知れなかった。

 最後に無理矢理、表題にからめようと努力するなら。
 ガソリンは揮発性が高く、うっかりしているとたちまち爆ぜてしまうのである。


2004/11/04 title = デスクワーク病?
 ようやっと。そう、ようやっと健康を取り戻し人並みの (時間的) 余裕を持ちなおした藤秋人です。みなさま今晩は。

 日記と言うものを、書き連ねるに当たってどのような文体で書こうか私はかなり悩みます。いまや、日常的に日記を付けるであろう人々は、Webサイト管理人と趣味で日記を書きとめている方くらいなのでしょう。私は、言うまでもなく管理人の一人でありこの日記も言わば見世物。
 当然、面白いか面白くないか位は気を使う訳です。実際面白いかどうかは別としても… ですが。できれば、毎日が笑える話ばかりなら楽しいのですが、そうもいかないのが人生。そんな訳で、今日はパソコンの話。

 今を去ること約四年前。まだオリンピックがシドニーだったころ。ようやっと家にWindows98搭載のパソコンが来ました。それまでは、駄文を直接紙に書いていました。その分、手は痛くなるので、一生懸命書きました。今でも、力をいれたりじっくりプロットから作ろうとするものはまず紙に起こします。

 ところが、パソコンで執筆するようになり。いつの間にか学生が副業 (それまでも大して変わらなかったのだが) と化し、今や一日中キーボードを打つようになると… 気づけば日本語のレベルが落ちたような気がする。そう思うようになりました。
 それは、本をゆっくり読むなり、掌編を書いたりすることでどうにでもなるのかも知れません。ですが。

 腰が痛くなったり、肩が痛くなったり、やおら太ったり、家に帰るとパソコンを触りたくなくなると言うのはどういうことなのでしょうか?

 これが、現代のデスクワーク病なのでしょうか。単に面倒になっただけなのか、それとも怠惰さに磨きが掛かったのか。全ての可能性を考慮して…… なんてことが、本当にできるだろうか。



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